ジェイク・バートン・カーペンターを偲んで
ジェイク・バートン・カーペンター: 1954年〜2019年
2019年11月20日、Burton Snowboardsの創設者、ジェイク・バートン・カーペンターが安らかに旅立ちました。癌の再発による合併症が原因でした。ジェイクはBurtonの生みの親であり、スノーボーディングのソウル、そして何よりも私たちが愛するスノーボーディングを与えてくれた人です。
さかのぼること数ヶ月前、ジェイクは自分の人生を振り返っていました。ここで、ジェイク自らが綴った年表を共有します。
ジェイク・バートンの歩み
1954年4月29日
4兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ニューヨークに生まれました。
1960年代
1961年冬
家族で初めてのスキー旅行へ行きました。場所はバーモント州のブロムリーマウンテン。このときから、雪や山が大好きになりました。
1967年2月17日
兄のジョージ・ホイットニー・カーペンターが、海兵隊の伍長として従軍していたベトナムで戦死しました。彼は、銀星章と名誉負傷章を授与されました。
1968年秋
マサチューセッツ州ノースアンドーバーのブルックススクールに入学しました。ここは父や兄も通った学校です。2年後、“スモモ”というあだ名の校長(父や兄の代からの校長)によって退学にさせられました。学校での私は、生意気な劣等生として有名でしたね。
1968年12月
クリスマスプレゼントにサーフボードをお願いしましたが、結果もらったのは勉強机でした。結局自分で$10のスナーファーを買い、ロングアイランドの丘で友人たちとたくさんの時間を過ごしました。
1970 年代
1970年秋
コネチカット州コーンウォールのマーベルウッドスクールに入学しました(セカンドチャンスとしての全寮制高校として知られている)。この頃の私はギアを入れ替え、相当ながんばり屋になっていました。勉強もバイトも一生懸命で、スキーチームにも所属していました。思い出すと、体を動かすことばかりしていましたね。モホークマウンテンに行ったり、校内でスナーファーをしたり、タッチフットボールやバスケットボールにも夢中でした。
1971年9月21日
母のキャサリン・キティ・カーペンターが白血病のため亡くなりました。息子に先立たれたことも精神的負担になっていたと思います。17歳の私は大きなショックを受け、ひどく落ち込みました。母は、いつも父から私を守ってくれました(父から暴力を受けたことはありませんが、彼が望むような息子ではありませんした)。母が亡くなってからの父は、最高のシングルファザーになりました。
1972年6月
卒業生総代として、マーベルウッドスクールを卒業しました。高校最後の学期、私はニューヨークへ戻って自主学習プログラムを受けていました。同時に、造園業のビジネスも始めました。資本は古いステーションワゴンと2本の熊手、ゴム袋だけでした。
1972年秋
コロラド大学ボルダー校に入学しました。当時30,000人くらいの生徒がいましたが、私に知り合いはいませんでした。大学のスキーチームのトライアルにも落ちてしまいました(NCAAでも屈指の強豪校なんです)。チームのほとんどはヨーロッパのエリートスキーヤーが占めていましたね。私を落としたビル・マロットは、この数十年後FISでの天敵となり、私は彼を訴えました(私は人生で2人の人間を訴えましたが、そのうちの1人が彼です)。あの頃、スノーボーダーのオリンピック出場への道は、決してフェアなものではなかったので。だからこそ、スキーヤーが関与しないシステムが必要で、当然のことながら結果は勝訴でした。思えば、このコロラド時代がスキーヤーとしての人生の終わりだったのかもしれません。
1973年春
孤独や寂しさもあり、私はコロラドを去ることにしました。東海岸へ戻り、ニューヨークでサラブレッド競走馬のトレーナーとしての道を歩もうとしたんです。しかしながら、レース前に馬の金○に電気ショックを与えている光景を目にし、すぐに辞めました。動物が大好きですから。
1973年秋
ニューヨーク大学の夜間クラスに通い始めました。その後4年間通い、水泳チームのキャプテンにまでなりました。
1977年6月
ニューヨーク大学を卒業し、マンハッタンの小さな投資銀行に就職しました。そこは、姉の友人であるヴィクター・ニーダーホッファーが経営していました。
1977年12月
毎日12〜14時間も働く生活に嫌気がさし、同時に、(心のどこかで)雪上でのサーフィンはスポーツとして成り立つはずだとも思っていました。ニューヨークでの仕事を辞め、バーモント州ロンドンデリーへと引っ越しました。その頃は住み込みのヘルパーをしており、馬の面倒も見ていました。敷地内に倉庫があり、そこで“Burton Boards”を立ち上げたんです。夜はバーテンダーのバイトをし、昼はスノーボードのプロトタイプを作り、近所の丘でテストしていました。
1978年
この頃のプロトタイプ作りは、家具から着想を得た方法(蒸気でアッシュを曲げる)やボートの構造を参考にした方法(チョップド繊維ガラス)をベースにしていました。ピーター・メルの父親(ジョン・メル)が所有するファクトリー、Freeline Designでサーフボードの構造を研究したこともありました。昼間はサーフボードを作っているので、夜の間だけ使わせてもらっていたんです。ジョン・メルは良き友人であり、幾度となく私を励ましてくれました(メモ: この頃の話は、とてもおもしろいインタビューになるはず)。
1979年1月
ミシガン州マスキーゴンで開催されたNational Snurfing Contestのオープンクラスで、私は優勝しました。賞金は$300でした。
1980年代
1981年
バーモント州のロンドンデリーからマンチェスターへと工場を移しました。初めて買ったマイホームの庭にあった倉庫が新しい工場です。倉庫が工場で、自宅のリビングがストア、地下室がストックルーム、ベッドルームがオフィスです。カタログ問合せの電話は24時間鳴りっぱなしでした。
1982年1月1日
ロンドンデリーのレストランで、生涯の伴侶となるドナに出会いました。その日は大晦日で、ちょうど1982年になった直後でした。当時のドナはニューヨークシティのコロンビア大学に通っており、バーモントで年越ししていたんです。その後ハングアウトするようになって、工場の手伝いをしてくれていました。
1983年5月21日
その日は土砂降りでした。29歳の私は、19歳のドナ・ガストンと結婚しました。コネチカット州グリーンウィッチにあったドナの実家で式を執り行いました。式に参列したのは12人でしたが、その後の披露宴には400人ものゲストが出席しました。雷が鳴る荒れた天気のなか、私は混乱していました。過去の様々な出来事が頭のなかをグルグルと回り、「もしかしたらこれは間違いなのでは?」「結婚祝いを返すべきなのでは?」と思ってしまったほどです。もちろん、間違いなんかではありませんでした。
1983年冬
スノーボーダーのリフト乗車を認めてもらうため、ストラットンマウンテンのパトロールと一緒に滑ったのがこの年のことでした。その日は幸運にも雪が良く、私も仲間たちも上手にボードを扱うことができました。その後、ストラットンマウンテンはスノーボーダーのリフト乗車を許可した最初のメジャーリゾートになりました。
1984年冬
妻の家族と一緒に、オーストリアへ“スキー”旅行へ行きました。みんなはスキーでしたが、もちろん私はスノーボード。私は毎晩のようにスキー工場を訪れ、スチールエッジのスノーボードの製造に賛同してくれる工場を探し回りました。ほとんどが門前払いでしたが、Keil Skiは違いました。ハー・ケイルと私はすぐに意気投合し、スキーの構造を採用し、スチールエッジやPテックスベースを備えたスノーボードが誕生することになったんです。
1985年
ドナと私はヨーロッパへ引っ越しました。ヨーロッパでのBurtonは、オーストリア・インスブルックから始まりました。その直前、私はバーモントのミドルベリー大学で6週間の集中的語学プログラムを受けました。まずはドイツ語を理解しないといけませんからね。向こうでは、インスブルックからほど近いイーグルスに住んでいました。自宅兼オフィスです。車庫には、スキーと同じ構造のスノーボードが並んでいました。ヨーロッパのマーケットに向けて、Keil Skiに依頼して作ったものです。私はプロダクトに集中し(ハー・ケイルと共に)、流通に関してはドナにまかせていました。
1985年3月
オーストリア・インスブルック在住のハーマン・カプフェレにお願いし、ヨーロッパでのビジネスをやりやすくするため、倉庫と店舗スペースを備えたオフィスを探してもらいました。これがBurton Europeの始まりです。
1989年11月12日
長男ジョージ・バートン・カーペンターがバーモント州ラトランドで生まれました(バーモントでは、狩猟期の初日に麻酔専門医を見つけるのは非常に困難なんです)。
1990年代
1992年
Burtonの工場とオフィスをバーモント南部から北部(バーリントン)へと移しました。この頃、スタッフは100人ほどでした。
1993年8月18日
次男テイラー・ガストン・バートン・カーペンターがバーモント州バーリントンで生まれました。
1993年冬
3歳になるジョージにスキーを教えました。危うく大惨事になりそうな事故もありました。これが私にとって最後のスキーになったんです。
1994年1月24日
バーモント州ストウでナイターを滑っていたとき、スキーヤーがぶつかってきてしまい脚を骨折しました。私の脚を見た医者はこう言いました。「バットで殴られたレジー・ジャクソンみたいだ!」と。
1996年7月24日
三男ティミー・イートン・バートン・カーペンターが生まれました。
1997年1月13日
「Sports Illustrated」によるインタビュー記事が掲載されました。タイトルは、”Chairman of the Board Jake Burton Took a Childhood Toy & Launched an international Craze (子供のおもちゃを世界的ムーブメントにまで昇華したジェイク・バートン)”でした。
1998年
アメリカン・エキスプレスのCMに出演しました。
1999年
この年から、年間100日滑ることを決めました。
2000年〜2009年
2002年2月
ソルトレイクシティオリンピック期間中、NBC「Today」の企画で、キャスターのケイティ・クーリックにスノーボードを教えました。もちろん私もハーフパイプの会場に足を運び、Burtonライダーのロス・パワーズとケリー・クラークの金メダル獲得をこの目で目撃しました。
2003年1月20日
カナダ・ブリティッシュコロンビア州のレベルストークで、クレイグ・ケリーが雪崩により命を落としました。8人が巻き込まれ、うち7人が犠牲になってしまいました。スノーボード業界全体が深い悲しみに包まれました。
2003年2月23日
日本の長野で、Burtonライダーのジェフ・アンダーソンが事故で命を落としました。
2003年7月
アメリカを離れ、家族と共に世界中の冬を追いかける10ヶ月の旅に出ました。南半球はもちろん、アジアやヨーロッパでのビジネス発展の原動力になったと思います。まず訪れたのは、エクアドルのキト。6つの大陸でスノーボードをし、サーフィンもしました。人生のなかでも、特に思い出深い1年でしたね。
2004年4月
10ヶ月の旅の最後に、ノルウェー・トロムセで開催されたArctic Challengeを観に行きました。その後、フェリーで6時間かけてローフォテン諸島を訪れました。朝はテリエと一緒にサーフィンをし、同じ日の午後、スタムスンドの山をハイクしスノーボードもしました。同日にサーフィンとスノーボードをしたのは、この日が初めての経験でした。
2006年2月
イタリア・トリノで行われたオリンピックを観に行きました。Burtonライダーのショーン・ホワイトとハンナ・テーターがハーフパイプで金メダルを獲得しました。このときのUSオリンピックスノーボードチームのウェアは、Burtonがデザインしたんです。
2006年3月
ジョージ、テリエ、デイブ・ダウニング、DCP等と一緒に、ロシアのコーカサス山脈へ撮影に行きました。常に武装したボディガードに囲まれ、巨大な軍用ヘリコプターで山頂へ向かいました。ジョージと私用のラインをテリエが見つけてくれ、最高のランを滑ることができました。
2007年2月14日
この日はストウに120cmもの雪が降り、ストーンハットでバレンタインデーを過ごしました。
2009年3月26日
世界規模の経済的危機を受け、全社員の給与の減額と北米社員の1%をリストラすることを余儀なくされました。
2009年12月31日
オリンピックでの活躍も期待されていたBurtonライダー、ケビン・ピアスが外傷性脳損傷という命を脅かす大ケガを負いました。バンクーバーオリンピックに向けての練習中の出来事でした。
2010年〜2019年
2010年1月19日
交通事故によるケガのため、ダニー・デービスがオリンピック出場を断念しました。
2010年2月
オリンピック観戦のためバンクーバーへ行きました。Burtonライダーのショーン・ホワイトが、ハーフパイプで2つ目のオリンピック金メダルを獲得しました。
2010年3月16日
社員に向け、私は以下のメールを送りました。「バーモント州バーリントンの製造工場(BMC/Burton Manufacturing Center)を、純粋な研究開発施設へリニューアルすることを決めました。このプロトタイプ工場は本社の隣になります。結果として、バーモントでのスノーボード生産は終了します。そして、忠誠心ある43名のスタッフが会社を去らなければいけません。非常に残念なことですが、ご報告となります」。
2010年3月3日
CEOのローレント・ポトゥバンが退任したことを受け、私は再びCEOの職に就くことになりました。
2011年1月12日
父エドワード・ティム・カーペンターが91歳で亡くなりました。
2011年1月13日
クレイグ・ケリーの功績に敬意を表し、本社敷地内にできた新しいプロトタイプ工場を“Craig’s”と名付けました。
2011年4月29日
心臓弁の手術をしたことを社員に報告しました。生まれつき僧帽弁逸脱症を患っていたんです。
2011年9月21日
社員に向け、「良いニュースと悪いニュース」という件名のメールを送りました。「悪いニュースは、癌が発見されたことです。良いニュースは、それは完治できるということです。正確にはセミノーマと呼ばれるもので、精巣腫瘍としても知られています(ランス・アームストロングと同じ症状です)」。
2011年12月14日
外傷性脳損傷から雪山に戻ってきたケビン・ピアスの復帰ライドに参加しました。このときの私は、精巣腫瘍の化学療法を受けていました。
2012年1月21日
癌が完治したことを社員に伝えました。
2012年9月27日
ドナと私は、スノーボーダーとして初めてバーモントスキー&スノーボードミュージアム(VSSM)の殿堂入りを果たしました。
2012年11月13日
自分にとっては初めてとなるシグネチャーボード、The Stone Hutを作りました。グラフィックはジミ・ヘンドリックスです。
2013年12月3日
2014 USオリンピックスノーボードチームのウェアお披露目イベントのためニューヨークへ行きました。Burtonがデザインしたんです。
2014年2月9日
ロシア・ソチでのオリンピックにて、スロープスタイルがデビューしました。現地で、Burtonライダーのエニ・ルカヤルビ(銀メダル)とマーク・マクモリス(銅メダル)の健闘を祝福しました。
2014年2月13日
ハーフパイプでは、Burtonライダーの平野歩夢(銀メダル)、平岡卓(銅メダル)、ケリー・クラーク(銅メダル)が大活躍してくれました。
2014年5月9日
長男のジョージがコロラド大学ボルダー校を卒業しました。
2014年5月14日
再びBurtonの会長の座に就きました。それを受け、前COOのマイク・リースがCEOに昇進しました。
2014年12月11日
膝の状態を社員に報告しました。「これまでも自分の健康状態については包み隠さずお話ししてきました。何度も何度も同じ質問に答えるのもあれなので、率直に言います。私の大腿脛骨関節外側部は完全に使いものにならなくなりました。関節鏡処置を試みましたが、無駄な努力でした。つまり、膝の部分的な代替手術が必要です。靭帯をはじめ、膝の大部分は自分のものを残すことができるのでラッキーでした。ただ残念なことに、これで北半球でのシーズンは終了です」と、メールで伝えました。
2015年1月
北京とソウルのBurtonオフィスを訪問しました。そのときのインタビューがBloombergにアップされています。
2015年3月5日
膝の移植手術から3週間が経ち、初めて新しい膝でライディングしました。息子ジョージをはじめ、ケビン・ピアスや執刀医のブライアン・ヒューバーが同行しました。
2015年3月12日
ミラーフィッチャー症候群の初期症状が見られたため、私はバーモントのコプリー病院へ搬送されました。これはギランバレー症候群の一種で、とてもレアな症状なんです。搬送後すぐにニューハンプシャー州のダートマス=ヒッチコックメディカルセンターに移送され、3日後には呼吸をはじめ、飲み込むことや目を開けることができなくなると言われました。ドナ曰く、3月15日の時点で私は挿管(気管チューブや摂食チューブ)されたそうです。最初の2週間半で麻痺症状は徐々に広がり、続く2週間半は安定した状態(ほぼ全身麻痺状態)でした。そこからゆっくりと筋肉が回復していきました。麻痺状態は計8週間ほど続き、常に人工呼吸器が欠かせませんでした。結局、人工呼吸器が外れるのに10〜11週間かかりました。ダートマス=ヒッチコックでは、ずっと集中治療室にいました。
2015年3月27日
トライベッカ映画祭で破壊的イノベーション賞を受賞しました。ただ、このとき私は集中治療室のなかでした。
2015年4月22日
ボストンのスポールディングリハビリテーションセンターに移送され、ミラーフィッシャー症候群からの復活を目指してスタートしました。まずは、ナイフとフォークでご飯を食べることから始めたんです。
2015年4月
Burtonのスタッフフォトグラファーが社員全員をCraig’sの前に集め、私のためにお見舞い用の集合写真を撮影してくれました。みんな中指を立てていました。私の家族やBurtonにとって、中指は愛のシンボルなんです。大きくプリントアウトして、いつでも見られるようにと病室に飾りました。写真のキャプションは、“We Fucking Love you Jake”。結局、世界中のオフィスから写真を送ってもらいました。
2015年6月6日
担当医にお願いして、外出許可をもらいました。1978年以来のアメリカクラシック三冠に王手をかけた、アメリカンファラオが出走するベルモントステークスを観るためでした。3人の息子、友人、看護師長、呼吸療法士が同行してくれました。その日は3レースに賭け、結果$5,000を儲けました。施設を出るとき、看護婦のみんなにあげちゃいました。
2015年6月15日
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてストウの自宅に戻りました。
2015年7月
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてBurton本社を訪れました。
2015年8月19日
摂食チューブが取れました。
2015年12月
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてスノーボードをしました。
2015年12月28日
「ニューヨーク・タイムズ」の記者、ジョン・ブランチが闘病について取材してくれました。
2016年2月
新しいCEOにドナを任命しました。
2016年12月
ジェフ・クーンズと共同でシグネチャーボードを作りました。売り上げの全てはChillに寄付されました。「ニューヨーク・タイムズ」でも取上げられました。
2017年3月
親友であり、Burtonライダーでもあるマーク・マクモリスが、カナダのバックカントリーで命に関わる大きなケガを負いました。私はすぐにお見舞いへ行きました。彼もまた、何度も私のお見舞いにきてくれたんです。
2017年12月
2018 USオリンピックスノーボードチームのウェアお披露目のためニューヨークへ行きました。
2018年2月
オリンピックを観るために韓国へ行きました。Burtonライダーのレッド・ジェラード、アンナ・ガッサー、クロエ・キム、ショーン・ホワイトが金メダルを獲得しました。
2018年8月22日
親友であり、医師のブライアン・ヒューバーが白血病と診断されました。“ドクター・セクシー”ことブライアンは、2015年に私の膝の手術を担当してくれました。もちろん、ミラーフィッシャー症候群で苦しんでいるときも常に側にいてくれました。
2018年12月
私自身のコレクション、Mine77をローンチしました。
2019年1月
1年限定で、ドナと私はスイス・チューリッヒへ引っ越しました。アメリカの狂気から逃れるため、そしてヨーロッパのビジネスをサポートするため、もちろんアルプスを滑るためです。
2019年11月10日*
世界中のBurton社員に向け、ジェイクはメールでこう言いました。「信じられないとは思いますが、以前患った癌の再発が発覚しました。初めてのときと同じ腫瘍で、前回の治療では完全に取除けていなかったようです。小さい腫瘍がリンパ節で悪さを始め、癌の再発という形で戻ってきました。
克服できる確率が高いとは言え、困難が待ち受けていることは確かです。
不安を感じてはいますが、家族の存在がそれを和らげてくれます。
会社や友人、スノーボードに対しても同じ気持ちです。また病を克服して戻ってきますが、信頼できる人たちに全てをまかせられるという安心感は、とてもありがたいものです」。
2019年11月21日*
Burtonの共同CEO、ジョン・レーシーが世界中のBurton社員にジェイクの死を報告しました。メールの最後にはこう付け加えられていました。「全ては突然の出来事で、家族や友人はもちろん、私たちみんなにも計り知れない空虚感を与えることでしょう。しかしながら、今こそ私たちの愛と元気をドナ、ジョージ、テイラー、ティミーに送りましょう」と。
*Burtonスタッフによる追記です。